141号編集室から

  • 2017.03.29 Wednesday
  • 22:51

編集室から(141号)本間健彦

 

☆『街から』141号をお届けします。本号も発行日をちょっとオーバーランしてしまいました。申し訳ございません。ここに来て新しい読者が増えてきていること、しかも地方の定期購読者もすこしずつ増えてきていることに大変嬉しく思っています。そんな時に水を差すような内情を告白するのははなはだ心苦しいのですが、恥を忍んで申し上げます。実は『街から』の印刷代と制作デザイン代が数号分滞納していて、電気代やガス代なら供給停止のレッドカード状態なのです。印刷屋さん、デザイナーさんとも仲間付き合いをしているのでつい甘えがでて、こんな体たらくな事態になってしまったのですが、打開策を講じなければ今後の発刊が困難になることは必定です。無様をかえりみずSOS発信をしてしまったしだいです。

 

☆24年前、『街から』を創刊した時の私の初志は、インディペンデントの市民雑誌を創ろう!ということだった。つまり、ヒモ付きでない自由な誌面づくりのできる自前の雑誌を、その趣旨に賛同してくれる仲間と創っていこう、と、ドン・キホーテ的に志したのでした。今もそうですけれど、創刊時も専従の編集者は私一人だった。いくら小冊子でも一人では雑誌は作れない。資本力や営業力が無ければ雑誌の発行は続けられないのですが、それもなかった。そんな貧弱な体制で20数年『街から』を編集・発行してこられたのは、インディペンデント・マガジンづくりに賛同し、ボランティア(手弁当)で参加してくれた寄稿者、編集者(寄稿者が編集者としても参画してくれているし、定期購読者を募る営業の仕事にも協力してくれている)が存在したからなのです。また、『街から』は、創刊当初から主として定期購読者の購読料によって制作していく雑誌づくりをめざしてきて、数年前までは何とか帳尻が合ってきた。だから低空飛行ながら何とか墜落することなく飛行できたわけです。

 

☆私が『街から』編集発行人して、創刊時から心してきたことは、「印刷代が支払える限り、『街から』は作り続けていこう」という素朴な戒律だった。それゆえ、これまでも印刷代の支払が遅滞したことはあったけれど、危険水域まで滞らせてしまったことはない。だから、『街から』は今日まで発行されてきたのです。けれども、経済優先社会が推進される中、そんな原始経済的な出版経営は通用しなくなってきたのです。印刷代は出版コストの主要な一つではあるけれど、他にもコストに加えなければならないものがたくさんあります。消費税や送料等が値上げされると、収入と支出のバランスは崩れ逆転し経営を圧迫しはじめた。加えて背伸びして断行した単行本出版の負債にも追われ始めた。これらが重なり、『街から』を継続していくために絶対にやってはならなかった印刷代の滞納というピンチを招いてしまったのです。

 

☆私は出版経営者としては落第生を自認せざるを得ませんが、『街から』は50代からライフワークのつもりで取り組んできましたので、それを全うするために生涯現役編集者ではありたいと願っています。体制を立て直して発行を続けるため、次号(142号)は7月10日発行とし、あとの号は9月・11月・次年度の1月・3月のそれぞれ10日発行と、発行月の変更のご了承をお願いします。

 

☆いやな感じの世の中になってきています。私は、『街から』に集った同志・仲間たちとインディペンデント・マガジンを作り続ける意義をひしと感じています。最小300の定期購読者が集えば、『街から』は安定して継続発行が可能です。新規会員の獲得など、ご支援・ご協力を宜しくお願いいたします。

140号編集室から

  • 2017.03.29 Wednesday
  • 22:29

編集室から(140号)本間健彦

 

☆今年の正月は、近所の神社への初詣もしなかった。晦日の夜の「紅白」―これはもう数年前から見ないことにしていたので、もちろんパスしたが、暮に年賀状を一枚も書かなかったことには、賀状が届くと、やっぱり失礼をしてしまったのかな、といささか反省をした。正月二日、三日の箱根駅伝だけは今年もテレビ観戦した。元旦はものごころついて以降初めて独りで迎えた。それゆえか雑煮もおせち料理も食べなかった。そんなふうな三が日の過ごし方をしてしまったので、新年を迎えるといったあらたまった気分もいだかぬままにその後の日々が過ぎ、早一月も終わるのか・・・と気づいたしだい。

 

☆「下流老人」の仲間入りをして、読書の愉しみを再発見しつつある。貯金はゼロだけれど、本箱を眺めると、読んでない本が実に実にたくさんある。いわゆる積読(つんどく)本の山だ。やっかいな問題は、初期白内障等もろもろの老化現象により読書欲はあれど読書力が暴落していること。とても死ぬまでに読み切れそうもないなあ、と積読本の山を眺めてボーゼンとする。まあ、背表紙のタイトルを眺め回し、あっ、この本、まだ読んでなかったな、ちょっと読んでみよう!といった感じの読書も老後の悦楽かもしれないぞ、と思ったりもしているのだが。わたしたちは、ほとんどの情報や知識をさまざまなメディアから受けとっている。問題なのは、その真贋を見極めにくいことだろう。本もメディアのひとつではあるが、良い本の著者や作品は、読者が内面で対話や交流ができる。読書はライブだからです!

 

☆『街から』は昨年度からトークライブの企画・開催に微力ながら力を注いできた。「コムロ寄席」はポレポレタイムス社の主催で、矢崎泰久さんをゲストに迎えて行う番外編は本誌に誌上公開している。本号の「野坂昭如の巻」は締切り直前の1月21日に行われたもの。その翌日には第3回目となる「街からト−クライブ」を新宿のカフェラバンデリアで開催、今最もアヴァンギャルドな批評家として注目されている都築響一さんと平井玄さんに「東京イースト・ウエスト」という標題で、格差社会の博物館といっても過言でない東京の裏表、光と影を語ってもらった。これは次号に掲載を予定している。そして来たる3月5日(土)には「浅川マキのいた時代」というテーマで、スペシャル・バージョンの「街からトークライヴ」を開催。7年前ライブツアーの途上逝ってしまった60年代の伝説的ブルースシンガー・浅川マキのアンダーグラウンドに徹した生き方とスピリットについて、フォーク界の哲人・小室等さんと、浅川マキの名伯楽として知られる音楽プロデューサー・寺本幸司さんに語っていただく。貴重なマキの歌や映像も紹介していただけるだろう。

 

☆読者のみなさんにもお馴染みの小室等さんや中川五郎さんは連日のようにあの街この町のライブハウス等でライブを精力的に行っている。いや、彼らだけではなく、多くのミュージシャンたちが。たぶん経済的な問題とかツアーのしんどさとかもあるだろう。でも生涯現役を貫くぞ!という気持ちで続けているのはなぜ?ライブは愉しいからだ!ライブハウスに観客が集うのは、ライブは愉しいからだ!そんなライブの熱気、息吹を、絶滅危惧種に挙げられているリトルマガジン『街から』にも導入したいのです。是非、小さなライブハウスでの「街からトークイベント」にもご参加ください!

139号編集室から

  • 2016.02.04 Thursday
  • 11:54
JUGEMテーマ:コラム

☆『大地を受け継ぐ』(井上淳一監督作品)というドキュメンタリー映画を観た。2011年3月24日、福島第一原発から約65厠イ譴進‥膰須賀川市で農業を営む樽川久志さんが畑の傍の山林で自死を遂げた。前日、関係先から収穫期を迎えていたキャベツの出荷停止を伝えてきたFAXを読み、「福島の農家は終わりだ!おめえに間違った道を進めてしまったな」と青ざめた表情で息子の和也さんにつぶやくように語ったのが、最期の言葉だったという。このドキュメンタリー映画は、息子・樽川和也さんと(40)と母親・美津代さんの二人が、原発事故に遭遇し今日まで生き抜いてきた4年間の自分たちの暮らしの状況とその万感胸に迫る思いを、東京からやって来た男女十一人の若者たちに語り聞かせるという手法で描かれている。ちょっと説明すると、農家の樽川家の座敷に長方形に並べられた座卓を囲む若者たちのまえで、樽川さんが語り、その言葉に、聞き手の若者たちがしだいに心を動かす表情がさざ波のように広がっていく、そんなシーンの映像で構成されていて、ドラマチックなシーンの全くない、ドキュメンタリー映画としては異色の作品なのだ。じつにシンプルなドキュメンタリーなのだけれど、心打たれ揺さぶられた。それは樽川さんが静かに淡々と語る、たとえば「これは風評じゃない、現実だ!」という言葉に、絶望的な現実の中で生きる人間の凛とした精神と存在感が認められたからだろう。監督の井上淳一さんは「言葉を撮ること――言葉を語る彼を撮ることで、言葉の向こう側にあるものが想像できるのなら、それこそが映画ではないか」と制作意図を語っている。ドキュメンタリー映画は、既存のジャーナリズムが失った機能を担っている、現代のジャーナリズムなのだな!私は、この映画を観ていて、そんな思いもつよくしました。


☆憤りを表にださないような静かな語り口が印象的だった樽川さんなのだが、「あのバカが!」と唯一激する声と表情を見せたシーンがある。それは高市早苗総務大臣が、ある講演で「東京電力福島第一原子力原発発電所事故で死者が出ている状態ではない」と語った言葉に対しての反応だった。福島第一原発事故に伴う災害関連死として認定されている死者数は既に1400人を超えているというのだ。総務大臣が、その事実を知らないはずはないのだから、この女性大臣の発言は、原発再稼働を正当化するための詭弁だったのだろう。批判を浴びて発言を撤回したそうだけれど、言葉の軽さ、実体のなさには、あきれかえるばかり。もっともこの大臣の上司にあたる安倍晋三首相は、東京オリンピック招致のプレゼンテーションで「フクシマについて,お案じの向きには、私から保証いたします。状況は、統御されています」という趣旨の演説を英語でおこない、堂々大詭弁を弄している。もし「ウソも方便」などと嘯いているのなら、いよいよもってヒトラー並みの大危険人物と警戒しなければならない。


☆「戦後70年」といわれた今年、この国で起きた最悪の事態は、「戦争法案」と多くの人が憂え反対した安全保障法案が茶番劇的なセレモニーを経て、遂に国会で可決されてしまったことだろう。これは戦後の日本が礎にしてきた平和憲法が詭弁を弄して改ざんされた一件だった。けれども、単に詭弁と批判するだけでは主権放棄に過ぎない。民主主義の制度を健全に機能させていくためには、市民各自が権力者の言葉の真贋を見抜く力をつけ、詭弁を弄する輩を権力者に選出しないという権利行使が不可欠に思えるからです。

138号編集室から

  • 2016.02.04 Thursday
  • 11:52
JUGEMテーマ:コラム

☆なかにし礼さんの『平和の申し子たちへ――泣きながら抵抗を始めよう』(毎日新聞社)という詩集を読んで大変感銘を受けた。無謀かつ無法な戦争法案の強行採決前後にこの詩集に出あったことも相乗効果を高めたのだろうが。タイトルになっている詩は次のような詩句がまず冒頭に記されている。
 <二〇一四年七月一日火曜日/集団的自衛権が閣議決定された/この日 日本の誇るべき/たった一つの宝物/平和憲法は粉砕された>
詩文に似合わない新聞記事のような、そっけない語句で、この詩は綴られているのだけれど、心根にどすんと響いた。そうなのだ、二〇一五年九月一九日未明のドタバタ・セレモニーにより参院で可決した戦争法案に対しては、あの時にすでに大鉈が振り落とされていたのだ。歴史は肝心な点が見過ごされ形成されていく。詩人の鋭敏な直感はその事実を見逃さず、この詩を書いたのである。読まれた方もおられるとおもうが、心に届いた詩句を紹介したい。
 

☆<ああ若き友たちよ!/巨大な歯車がひとたびぐらっと/回りはじめたら最後/君もその中に巻き込まれる/いやがおうでも巻き込まれる/しかし君は戦う理由などあるのか/ 国のため?大義のため?/そんなもののために/君は銃で人を狙えるのか/君は銃剣で人を刺せるのか/君は人々の上に爆弾を落とせるのか> なかにし礼さんのこの詩は、七十年間平和がつづいてきた、この国に生まれ育った、戦争を知らない若者たちへ呼びかけるという形式で書かれている。なかにし礼さんは、一九三八年、中国黒龍江省(旧満州)生まれ、戦時下に少年時代を過ごした世代だ。敗戦後は植民地からの引揚者家族の子どもだった。子ども心に戦争の悲惨さ――醜悪、愚劣、残酷、恐怖、飢えの記憶を脳裡に焼き付けている。だからこそか、彼は若者たちに、こんな思想を伝える。<たとえ国家といえども/俺の人生にかまわないでくれ/俺は臆病なんだ/俺は弱虫なんだ/卑怯者?そうかもしれない/しかし俺は平和が好きなんだ/それのどこが悪い?/弱くあることも/勇気がいることなんだぜ そう言って胸をはれば/なにか清々(すがすが)しい風が吹くじゃないか/怖れるものはなにもない> そしてこの詩をこんな詩句で結んでいる。<だから今こそ! もっともか弱きものとして 産声をあげる赤児のように/泣きながら抵抗を始めよう 泣きながら抵抗しつづけるのだ/泣くことを一生やめてはならない/平和のために!> 
わたしは、なかにし礼さんと同世代なので、<だから今こそ!>というなかにし礼さんの決起の真情がよくわかる。


☆この詩を読んでいたので、戦争法案反対の運動に立ち上がって注目を浴びた学生団体シールズの若者たちと,そのリーダー奥田愛基さん(23歳)の行動と思想にわたしも関心を寄せてきた。六〇年代末から七〇年代初頭にかけて旋風を巻き起こした全共闘運動が終息して以降、学生運動は消滅したと言われ、若い人たちの政治への無関心が指摘されつづけてきたので、彼らの出現が脚光を浴びたのだろう。それと彼らのデモが、全共闘時代のデモのようにヘルメットをかぶり角材を武器にするような武闘派的でないことも新鮮に映ったにちがいない。参院中央公聴会の公述人に選ばれた奥田愛基さんはこんな意見陳述をしている。「私たちこそがこの国の当事者、つまり主権者であること、私たちが政治について考え、声を上げることは当たり前なのだと考えている。その当たり前のことを当たり前にするために、声を上げてきた。」この思想こそが民主主義の原則なのだ。この奥田青年のもとに数日前、「お前と家族を殺害する」と記した脅迫状が届いたというニュースが報じられた。自由な声を圧殺しようとする空気が高まりつつある。泣きながら抵抗しつづけよう。

137号編集室から

  • 2016.02.04 Thursday
  • 11:50
JUGEMテーマ:コラム

☆一九四五年八月十五日、日本が先の戦争に敗戦した日を、私は、疎開先の、夏の気温が日本一番高い熱い街として知られる埼玉県熊谷市で迎えた。私は七歳、国民学校(当時の小学校の呼び名)一年生だった。この日のことを鮮明に記憶しているのは、玉音放送があって日本の敗戦が伝えられた歴史的な日だったからではない。当日未明、B29爆撃機の空襲に遭遇し爆弾や焼夷弾が雨霰のように投下され家々が直撃を受けて爆破されたり軒並に火災していく街中をかいくぐって家族(乳飲み子の妹をおぶった母と女学生だった二人の姉)と共に郊外の村里へ逃げ延びるという体験をしたからだった。子どもだったせいか恐怖感はなかった。今でもよく憶えているのは、次姉が持っていた妹用の粉ミルクと砂糖(当時は貴重品だった)の缶を落としてしまったことと、慌てて拾いに行こうとした姉に対し、妹を背負って後に続いていた母が「いいから早く逃げなさい」と叫んでいた声だ。

☆早朝、私たちは疲れ切った足取りで家路についた。市街はすっかり焼け跡と化していた。市街地の外れにあったわが家は焼失を免れたが、駅前旅館を営んでいた叔父の大きな旅館は消えていた。ポツンとそれだけが残った、しかし焼け焦げて赤茶けた金庫の前で叔父が「日本は戦争に敗けたよ」と大粒の涙を流しながら母に告げていた。母も泣いていた。だが、国民学校一年生の私は泣かなかった。ちっとも悲しくなかったので。というより、もの心ついた頃からずーっと戦争の時代に幼少期をすごしてきた私には、戦争でない日常というものがとっさに想像できなかったので、戦争に敗れるという意味がよくわからなかったからだろう。

☆というわけで、少年の日の私は、日本の敗戦を、多くの大人たちのように悲しんだり、秘かに平和を希求してきた人々のように喜んだりもしなかったように思うのだけれど、一夜にして出現した市街の焼け跡風景には、なぜか感動した。誤解のないようにちょっと説明しておくと、私は別に戦争で家を失った人々や戦災で傷ついたり亡くなった人々の悲しみや憤りや絶望感などを度外視しているわけではない。これは、あくまでも風景にのみに注視した、その時の私の所感であり、イメージだとお考えいただきたい。少年の私は、その時、地平線の彼方まで続いているかのような瓦礫の焼け跡と抜けるような雲一つない夏の青空――その光景に爽快なまでの解放感を感じたのだった。見てはいけない、知ってはいけない、そんな真実を、その時少年の私は見つけてしまったのかもしれない。そしてそれは今になって思いを馳せれば、戦争の時代という暗く重苦しい天蓋が取っ払われることの自由というものに、その時、私は覚醒したということだったのだろう。

☆人間の歴史は血塗られた戦争絵巻で綴られてきた。歴史は繰り返す、という嫌な格言がある。だが、核時代の世界大戦は人類の破滅を早めるだけで、もはや繰り返しも復興もありえない。無知蒙昧な為政者に戦争を起こさせる権限を許したら、人間は絶滅するしかない。私は、詩人・高橋睦郎の「人為による反自然はいつか自然の反撃を受けるだろう。市(まち)はいつか森や野の復讐を浴びるだろう」という明察な短章を箴言にしている。

*  * 

追記: 前述した、空襲で逃げていたとき粉ミルクの缶を落とした、次姉が去る七月八日死去した。享年八十三だった。そして同日、ジャズ喫茶映画館のマスターからのメールでジャズ評論家相倉久人さんの逝去を知らされた。次姉と同じ死亡日と享年だった。相倉さんとは昨年暮れ、トークライブで再会し、スニーカーとジーンズといういでたちのお元気な姿に接していたので、訃報に茫然とした。この場をお借りしてお二人の冥福を祈りたい。

お知らせ

  • 2015.06.20 Saturday
  • 15:02
JUGEMテーマ:コラム

街から舎では隔月でリトルマガジン「街から」を発行しています。
街からが、毎号どのような感じで作られているのかをお伝えできればと、今後編集後記をブログ上でご紹介していきたいと思います。
(創刊号からでのものも抜粋して少しずつご紹介する予定です。)


 

136号編集後記

  • 2015.06.20 Saturday
  • 14:50
JUGEMテーマ:コラム
136編集室から
 
☆「若葉の眩しい季節になりました。こちら、お米の苗も順調に育っていて、水のはいった田んぼにはオタマジヤクシがいっぱい。そろそろ田んぼ作業の始まりです。街のみなさま、お元気で。わかこ」『街から』136号の寄稿お願いメールをおくったら、おおえまさのりさんの連載エッセイ「カントリーダイヤリー」の挿絵を描いてくださっているおおえわかこさんからそんなメールのお便りをいただいた。しばらく後にまさのりさんの原稿とわかこさんの挿絵が届くと、今度はこんな挨拶の添付も。「6月の初めごろから田植えを始めようと思っています。お時間が作れましたら、またお出かけ下さい。」連載エッセイを愛読されている方は周知のようにおおえ夫妻は山梨県北杜市の田園で田や畑を耕す暮らしを営みながらお二人それぞれの表現活動にもいそしんでいる。「また…」と言われてしまっているのには、理由がある。実は私が数人の仲間とおおえさんのところの田植えに出かけたのは数年前のことで、子どもの頃に回帰したような愉しい体験だったので、以後毎年「今年の田植えには行きます」「稲刈りには参加します」などと言いながら、結局“オオカミ少年”になってしまっていたからだろう。老体だから大したお手伝いができるわけではなく、どうせ遊びに出かけるだけのことなのだけれど、それがなかなか果たせない。トシをとると出不精になるということもあるのだろうけれど、理由はそれだけでもない。
☆こういうところで私的な言い訳や愚痴は慎むべきなのだろうが、このところ関係者にいろいろご迷惑や不義理を重ねているので、ちょっとだけわが窮状を告白する。一昨年ころから手がけてきた単行本出版がことごとく壁に阻まれ、身の丈に合わない借金や在庫と返品の山を抱えて立ち往生状態に陥ってしまったのだ。誤解のないように申し添えると、単行本出版の不業績は出版した本の内容の良し悪しが要因だったわけではなく、あくまでも小社の経営力の弱体に由るものだった。いわば背伸びし過ぎによる失敗なのだ。悪いことは重なるもので加えて身辺にもいくつか私事の問題が生じ、その対策にも追われる日々が続き、御蔭様で体重を5キロほど落とすことができた。嬉しい悲鳴というべきか!?
136号の寄稿メールの中には、こんな添付の便りもあった。「追伸 ゲルハルトが、今度は本間さんいつ来るの、また話がしたいと、言っています。5、6月は一番美しく、外で過ごすのが楽しい季節です(今日は珍しく雨降りですが)。――これはイタリア在住の神田真理子さんから。神田真理子さんは創刊号から一度も休むことなく寄稿をしてくれている『街から』常連執筆者だ。彼女は20数年前、役所を早期退職し、日本の大学で先生をしていたドイツ人のゲルハルトと結婚、二人はそれぞれの祖国を離れ、イタリア中部の大学都市ペルージャ近郊に位置する丘陵地帯の美しい田園の村里に終の棲家を探し求め、今日まで暮らしてきた。かれらの家はドイツや日本から訪れるチープシック志向の客人を迎える旅籠屋にもなっている。ご亭主のゲルハルトさんは元馬小屋だった場所を和式の道場に改造して若者たちに合気道を教えている。彼は日本語が上手なので夜半までワインを呑んで会話が弾んだ。憧れのフィレンツェやベニスも駆け足で観光したが、神田・ゲルハルト邸で過ごしたひとときが今でも鮮やかに心に残る。
☆『街から』は絶滅危惧種的ミニコミ誌であるけれど、今や希少価値的存在の<人間屋>たちに支えられ今日まで存立してきた。それが私の生きる歓び、生き抜く力になっている。
 

135号編集後記

  • 2015.06.20 Saturday
  • 14:49
JUGEMテーマ:コラム
135編集室から 本間健彦
 
☆人間は壊れつつあり、人類は滅亡への道を歩みはじめているのではないか。昨今の国内外の、ああ!と思わず嘆息するしかない闇雲なニュースに遭遇すると、そんな絶望感に陥る。
前号のこの欄では原稿締切り間際に飛び込んできたフリー・ジャーナリスト・後藤健二さんが無残にも見殺しにされた事件に触れたけれど、今回は闇雲な事件の極め付きといってもいいドイツの格安航空機墜落事故ニュースに遭遇し言葉を失った。事故原因の詳細はまだ解らないようだが、副操縦士が故意に飛行機を墜落させたらしいと伝えられている。一体動機はなんだったのか?テロ行為ではなく、副操縦士は精神疾患を患っていたらしいということも報じられている。真相はともかくとして、こんなとんでもないパイロットの旅客機に乗り合わせていた人々のあまりの不運、不条理、無念さに、思いを馳せると胸が痛む。

☆しかし、わたしたち日本人も(一緒に束ねられたくないという方もおられるのでしょうが)、今、闇雲飛行を敢行している為政者の飛行機に乗り合わせている不安と恐怖に慄いているという昨今の現状、そのことに思いを馳せないわけにはいかない。わたしたちの搭乗している飛行機のパイロットとは、いうまでもなく安倍晋三首相のことだ。かれが首相に就任してからこの二年余りの間に次々に放ってきた闇雲としか思えない数々の施策についてはすでに皆さんもご存知だろうし、ここで論議する紙幅もない。それらが闇雲な暴走としか思えないのは、それらの施策がいずれも民意に耳を傾けないどころか、民意を無視し斬り捨てるような強引なものだからだろう。政権を奪取するに際して掲げた「日本を取り戻す」というスローガンの目指す施策もくっきり浮かび上がってきた。遅まきながら「ああ、怖い!」と気づきはじめても、飛行中の機内から脱出は不可能。暴走パイロットをコックピットから引きずり出し、まともな操縦士に替わってもらうしか、活路はない。民主主義の社会では、そのような行動は選挙やデモでしか実現できない。これがなかなか埒の明かないシステムなのだけれど、辛抱強くこれに賭けるしかない。圧政が強まればその手段さえ奪われてしまうことを思えば、「とんでもない日本を取り戻される」前に、わたしたちが死守すべきはやはり民主主義の理念と精神だろう。
 

134号編集後記

  • 2015.06.20 Saturday
  • 14:47
JUGEMテーマ:コラム

134号編集室から 本間健彦
 
☆一月末の土曜日の夕、文京区白山にあるジャズ喫茶『映画館』で催された「相倉久人炸裂ジャズトーク」の会に出かけた。本号の校了直前で、いつも最後の入稿になるこの「編集室から」の小文をまだ書いていなかったので控えたかったのだけれど、ここ数日間、フリーランス・ジャーナリストの後藤健二さん人質事件が日増しに緊迫するニュースの洪水に遭遇して、すっかり気持ちが滅入ってしまっていたので、不謹慎とは思いつつ気晴らしの気分で出向いたのだった。それと動機はもうひとつあった。白山にはわが家の墓のある寺があり、そのジャズ喫茶店と寺は向こう三軒両隣といった所に位置しているので、暮にも新春にも墓参りをしなった後ろめたさもあったことから、墓参も兼ねてということもあったのだ。気を付けたい点の一つなのですが、人間齢をとると横着になるのです。

☆さて、相倉さんの当日の演目は「SWINGJAZZ SPCIAL 192030年代の白人ジャズ裏事情!ビックス・バイダーベック、トミー&ジミー・ドーシー特集」というもので、特集にとりあげた白人ジャズ・ミュージシャンが主人公の映画(DVD)の触りを観ながら、相倉さんの話を聞くことができた。ジャズ喫茶なのに『映画館』という店名の店にふさわしいトークイベントで、ご機嫌なひと時であった。私が新宿に数多く点在していた塹壕みたいなジャズ喫茶でジャズをよく聴いていたのは60年代初頭の頃で、当時はマイルスやコルトレーンら、ちょっと抵抗を感じる用語を使うと、ジャズを芸術に高めた黒人ミュージシャンが創出したモダンジャズの全盛時代だった。それゆえジャズは黒人音楽なのだ!と早飲み込みしていたこともある。けれどもジャズの歴史をひも解けばわかるようにその前、つまり192030年代はスイングジャズがダンス音楽として全盛だったのである。そしてスイングジャズ時代をけん引していたのはグレン・ミラーやベニー・グッドマンら白人プレーヤーたちだった。そんなジャズ史から「黒人対白人」という図式で語られるジャズ論もあるが、相倉さんは「白人といっても、いわゆるWASP(ワスプ)と呼ばれる白人エリート支配層じゃない、ユダヤ系、アイリッシュ系、ドイツ系など、マイノリティ階層の白人が2030年代のジャズメンが多かった」と解説していた。それからこんな話も。「モダンジャズの元祖バップは、第二次世界大戦でダンス・ミュージックだったジャズを演奏するホールやジャズクラブの灯が消されていったため、失業した黒人ミュージシャンが客の居ないジャズクラブで仲間とジャムセッションをやっていたなかから誕生したのです」。「戦争が終わり、ジャズは復活し、モダンジャズは一部の愛好者や音楽評論家等から熱い評価を浴びるけれど、ジャズのマーケットはけっして大きくならなかった。マーケットが大きくならなかったから、ジャズはジャズ・スピリットを失うことなく生き残ってこられたのです」とも。

☆いい話を聞けたな!と、その晩はご機嫌で帰宅したのだったが、翌朝目覚めると、後藤健二さんが殺されたというニュースが飛び込んできた。後藤さんは見殺しにされたのだ。人道支援などという大義名分を押し立て<十字軍>への参戦を宣言した、この国の為政者の無慈悲により、フリーランサーの後藤健二さんは十字架に懸けられてしまったのだ。合掌。
 
 
 

133号編集後記

  • 2015.06.20 Saturday
  • 14:44
JUGEMテーマ:コラム

133編集室から 本間健彦

☆平井玄さんの新連載「戯志群衆伝・大杉栄を生き直す」が本号から始まった。この物語の主人公・大杉栄の国家権力による虐殺事件は、歴史修正主義によってもけっして消し去ることのできない、日本近代史の許し難い汚点の一つだろう。従来、大杉栄には、社会主義者とかアナーキストといったレッテルが貼られてきたが、筆者の言によれば、非正規労働や時代の閉塞状況にも屈せずに生き抜いている、彼の周りに集う元気のいい若者たちのあいだでは、そんな狭い枠に囚われない「自由への遊撃」を果敢に挑んだ大杉像への評価が高まっているという。そこに今回平井玄さんが、この「戯志群衆伝・大杉栄を生き直す」という物語を構想し執筆する動機があるのだろう。新連載の物語を期待しよう。


☆ところで、平井玄さんは、本誌初登場なので簡単にプロフィールを紹介しておこう。一九五二年東京生まれ。実家は新宿二丁目の元遊郭内にあった洗濯屋さんで、仲間たちの間では「洗濯屋の玄ちゃん」の愛称で親しまれてきた。六〇年代末、都立新宿高校時代には高校全共闘運動に参加。自伝的エッセイでこんな文章を書いている。「一九六九年一〇月、新宿文化アートシアターでジャン=リュック・ゴダールの『ウイークエンド』を私は観た。高校二年の秋である。天啓といっていいだろう。(中略)あれ以来、私の『ウイークエンド』が終わらないのである」(著書『愛と憎しみ新宿』)。あの時代が平井玄さんの原点なのだろう。さまざまなムーブメントに関わりながら、音楽・思想・社会問題等幅広い領域を独自の視点と切れ味のいい文章で綴る論者(思想家)として近年頭角を現してきた。著書に『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』『路上のマテリアリズム』『引き裂かれた声』などがある。


☆ちょっと予告篇を見ておくと、大杉栄は新宿柏木の路上で拉致され、九段下にあった憲兵隊本部へ護送されて、その日のうちに虐殺されるというのが史実なのだが、「戯志群衆伝」においては、四谷三丁目付近で護送車が転覆事故を起こしたため、大杉は四谷鮫ヶ橋貧民窟に逃げ込むという物語が構想されている。新宿通りを右折して円通寺坂を蛇行して下り、JR信濃町駅方面に抜ける谷間のような地形の街区が、かつて東京一の貧民窟だったと伝えられる鮫ヶ橋地区なのだけれど、現在は町名が変わっているしスラム街も存在しない。けれどもこの谷底の街をロケハンしていると、貧民窟の残像がブローアップしてくる。町名を変えても、地形や歴史を消滅させてしまうことはできないのではないか。そんな所感を抱く私の脳裡から、一握りの繁栄を謳歌する坂の上の企業や人びとの足下、谷底で首都東京のみならず全国各地に鮫ヶ橋化・山谷化現象が生じつつあるのではないかという妄想を消去することができない。


☆この師走に、衆議院を解散し選挙だという。毎度のことだけれど、どの党の誰に一票を投じればよいのか、途方に暮れる。だが、匙を投げて棄権してしまえば、われら草莽の痛みなどどこ吹く風とばかりに暴走する政権にブレーキをかけることができない。沖縄知事選の朗報にあやかるよう祈念し、投票所へ足を運び一票を投じることにしよう。