137号編集室から

  • 2016.02.04 Thursday
  • 11:50
JUGEMテーマ:コラム

☆一九四五年八月十五日、日本が先の戦争に敗戦した日を、私は、疎開先の、夏の気温が日本一番高い熱い街として知られる埼玉県熊谷市で迎えた。私は七歳、国民学校(当時の小学校の呼び名)一年生だった。この日のことを鮮明に記憶しているのは、玉音放送があって日本の敗戦が伝えられた歴史的な日だったからではない。当日未明、B29爆撃機の空襲に遭遇し爆弾や焼夷弾が雨霰のように投下され家々が直撃を受けて爆破されたり軒並に火災していく街中をかいくぐって家族(乳飲み子の妹をおぶった母と女学生だった二人の姉)と共に郊外の村里へ逃げ延びるという体験をしたからだった。子どもだったせいか恐怖感はなかった。今でもよく憶えているのは、次姉が持っていた妹用の粉ミルクと砂糖(当時は貴重品だった)の缶を落としてしまったことと、慌てて拾いに行こうとした姉に対し、妹を背負って後に続いていた母が「いいから早く逃げなさい」と叫んでいた声だ。

☆早朝、私たちは疲れ切った足取りで家路についた。市街はすっかり焼け跡と化していた。市街地の外れにあったわが家は焼失を免れたが、駅前旅館を営んでいた叔父の大きな旅館は消えていた。ポツンとそれだけが残った、しかし焼け焦げて赤茶けた金庫の前で叔父が「日本は戦争に敗けたよ」と大粒の涙を流しながら母に告げていた。母も泣いていた。だが、国民学校一年生の私は泣かなかった。ちっとも悲しくなかったので。というより、もの心ついた頃からずーっと戦争の時代に幼少期をすごしてきた私には、戦争でない日常というものがとっさに想像できなかったので、戦争に敗れるという意味がよくわからなかったからだろう。

☆というわけで、少年の日の私は、日本の敗戦を、多くの大人たちのように悲しんだり、秘かに平和を希求してきた人々のように喜んだりもしなかったように思うのだけれど、一夜にして出現した市街の焼け跡風景には、なぜか感動した。誤解のないようにちょっと説明しておくと、私は別に戦争で家を失った人々や戦災で傷ついたり亡くなった人々の悲しみや憤りや絶望感などを度外視しているわけではない。これは、あくまでも風景にのみに注視した、その時の私の所感であり、イメージだとお考えいただきたい。少年の私は、その時、地平線の彼方まで続いているかのような瓦礫の焼け跡と抜けるような雲一つない夏の青空――その光景に爽快なまでの解放感を感じたのだった。見てはいけない、知ってはいけない、そんな真実を、その時少年の私は見つけてしまったのかもしれない。そしてそれは今になって思いを馳せれば、戦争の時代という暗く重苦しい天蓋が取っ払われることの自由というものに、その時、私は覚醒したということだったのだろう。

☆人間の歴史は血塗られた戦争絵巻で綴られてきた。歴史は繰り返す、という嫌な格言がある。だが、核時代の世界大戦は人類の破滅を早めるだけで、もはや繰り返しも復興もありえない。無知蒙昧な為政者に戦争を起こさせる権限を許したら、人間は絶滅するしかない。私は、詩人・高橋睦郎の「人為による反自然はいつか自然の反撃を受けるだろう。市(まち)はいつか森や野の復讐を浴びるだろう」という明察な短章を箴言にしている。

*  * 

追記: 前述した、空襲で逃げていたとき粉ミルクの缶を落とした、次姉が去る七月八日死去した。享年八十三だった。そして同日、ジャズ喫茶映画館のマスターからのメールでジャズ評論家相倉久人さんの逝去を知らされた。次姉と同じ死亡日と享年だった。相倉さんとは昨年暮れ、トークライブで再会し、スニーカーとジーンズといういでたちのお元気な姿に接していたので、訃報に茫然とした。この場をお借りしてお二人の冥福を祈りたい。

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